明和三美人の一人、笠森お仙

江戸時代後期、美女で有名となったのが笠森お仙(かさもり おせん)。1751年(宝暦元年)生まれで、1827年2月24日(文政10年1月29日)没、77歳まで生きたから長寿だったと言える。お仙は江戸谷中の笠森稲荷門前の47軒の水茶屋の一つ「鍵屋」の娘で、そこで13歳から働いていたが、看板娘で有名になったので、笠森お仙と呼ばれた(町人は普通苗字がない)。水茶屋は美女を置いて、客の接待をさせるやや高級な休み茶屋。明和年間(1764年-1772年)の三美人の一人と称されたが、後の二人は浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘・柳屋お藤、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘・蔦屋およし。明和5年(1768年)、18歳のとき、美人を題材に錦絵を描いた絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となった。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えた(絵の若衆もその典型)。「鍵屋」自体、ブームに目をつけて、美人画・手ぬぐい・絵草紙・すごろく等の「お仙グッズ」も販売していたというから、商売上手だ。

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当時の谷中は、線香の匂いに混じってあちこちから嬌声と白粉の香りが立ち込めていたと言うし、感応寺界隈は富くじと水茶屋で有名になり、江戸っ子は一攫千金と女性の色香に鼻の下を長くしていたようだ。本来、水茶屋は渋茶を売るのが目的ではなく、もっぱら春を売るのを本業としていたのが多かった。その上客が谷中では坊主が多かったと言う。もちろん、美人を眺めるだけで帰る客も多かったが、その場合も、茶代8文が相場のところ、50文~100文(1000円~2000円)と置く客もいた。

現在にも伝わる童謡に、『むこう横丁のお稲荷さんへ一銭あげてざっと拝んでお仙の茶屋へ、腰をかけたら渋茶を出して、渋茶よこよこ横目で見れば、米の団子か土の団子か、とうとうとんびにさらわれた』と言うのが残っている。当時、笠森稲荷での願懸けに土の団子を供え、願が叶うとお礼に米の団子を供えた事が分かる。蜀山人も『半日閑話』でお仙の事を書いている。

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しかし、明和7年(1770年)2月頃、人気絶頂だったお仙が突然姿を消したから大騒ぎとなった。お仙目当ての客は、お仙がいなくなった水茶屋に老齢の父親・五兵衛がいたために「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行したとか。突然消えた理由が不明で、色々と憶測が飛び交った。

異説1
お仙の本当の親は草加宿の名主で、賭博好きが嵩じてお仙を「鍵屋」に売ったと言う。多数の男が言い寄るが、お仙は作事奉行の伜で中川新之助と深く言い交した。しかし、鍵屋の主人五兵衛は嫉妬したのだった。お仙は五兵衛を諦めさせようと色々画策したが、却って五兵衛の嫉妬を増長させる。お仙は思い余って新十郎と駆落ちし浅草に隠れ棲んでいた。しかし数ヶ月後、五兵衛はとうとう彼女の隠家を探し出し、お仙の咽喉笛に噛み付いたので、血の中に息絶えた。類まれな美人で愛嬌のよい善良な娘が非業な最期を遂げたと噂され、江戸っ子はひどく同情したとの異説が流布した。

異説2
もう一つの異説は、人気役者の瀬川菊之丞と駆落ちしたとの話し。こちらは広く流布しなかったのではないか?人気役者ならば、調べれば嘘と分かるはず。

真相
お仙二十歳の時、幕府お庭番の倉地家に請われて嫁となっている。町人や百姓の女性は武士の仮親を立て、養女として武家に嫁するという抜け道があった。お庭番は身内だけの縁組に限定されていた(情報組織なので創設者将軍吉宗がそういう指示を出していたらしい)ので、組屋敷内の誰かを仮親にしたのだろう。お庭番は探索・隠密が仕事で外部との接触は殆どなかったから、お仙が急に雲隠れしたように思われたのではないか。お仙はそこで九人の子宝に恵まれ、長寿を全うしている。現在、お仙を葬った墓は東京都中野区上高田の正見寺にあり、永井荷風の文によるお仙の稗が建っていて、隣に鈴木春信の顕彰碑も並んでいるそうだ。
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