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ユダ王国ヒゼキヤ王の印章の発見

●ユダ王国ヒゼキヤ王の印章の発見

エルサレムの神殿の丘の南壁下、オフェル(丘)の発掘現場で見つかったごみ捨て場の遺跡から、2700年前の粘土製の王の印章が発見された。ヘブライ大学発掘チームが発見したのは、紀元前8世紀のユダ王国ヒゼキヤ王の印章。粘土で作られた印章は、幅1センチ強の楕円形で、パピルス文書を丸めて紐で結んだ箇所のシールに押印するのに使われたと考えられている。発掘作業を指揮したエイラト・マザール女史(エルサレムの神殿の丘付近で発掘に当たっているヘブライ大学考古学者、イスラエル考古学のパイオニアとして著名なベンジャミン・マザールの孫)は、「王の印章は非常に重要なものだった。王以外の誰かが使用する許可を得ていたとは考えにくい」と語った。その上で「つまり刻印も、王自身が自分の指輪を使って刻んだと考えるのが妥当だ」と指摘した。旧約聖書にも登場するイスラエル王国やユダ王国の王の印章を学術調査隊が発見したのは、これが初めてだと言う。印章には古代ヘブライ語で「ユダ王アハズ(の子)ヒゼキヤのもの」と書かれている。中央には2つのアンク十字に挟まれて下向きの翼を持つ太陽が描かれている。エジプト風の図案であり、太陽あるいは太陽神「ラー」のシンボルである双翼と生命の象徴であるアンク十字が刻まれている。

Hezekiah.jpg


印章が見つかった場所は、エルサレム旧市街のシルワン地区にある古代のごみ捨て場で、王室関係の建物からごみと一緒に捨てられたと考えられている。マザール女史によれば、紀元前20世紀頃からエルサレム地域ではエジプトの図案が広く普及していたが、すでに本来の意味はなくなり、神を敬うシンボルに使われていたと言う。印章自体はすでに2009年に発見されていたが、その内容が確定できずにいたが、ヘブライ大学の研究班が拡大鏡を使用して文字を解読して、「ユダ王アハズ(の子)ヒゼキヤのもの」と書かれている事が判明した。これまで骨董市場では、ヒゼキヤの名前のある印章が出回っていたが、考古学調査を経て発見されたのは、これが初めてで価値がある。

●アハズ(BC735-720):国難に対しアッシリアに服属する王

ヨタムの子で、南ユダ王国の第12代の王。紀元前738年頃アッシリア王ティグラト・ピレセル3世がシリア方面に進軍した時に、ヨタムとアハズはアッシリアに臣従の姿勢を取り、貢納を収めた。同時期にアッシリアに服属したダマスコ(シリア)やイスラエル(エフライム)等が同盟を結んで反アッシリアの姿勢を取った。これに対しアハズが親アッシリア政策を維持したため、ダマスコ王レツィンとイスラエル王ペカ・ベン・レマリヤは共謀してアハズ廃位を画策し、ユダ王国を攻撃した(シリア・エフライム戦争)。エルサレムが包囲されるに至って、アハズは預言者イザヤ等の反対を押し切り、ティグラト・ピレセル3世に属王の礼を取って援軍を求め、見返りの貢納を収めた(列下16:7-8、イザヤ書7章)。ティグラト・ピレセル3世は直ちにダマスコとイスラエルを攻撃してダマスコを征服し、北イスラエル領土の大半を併合した。このため、北イスラエルは次王ホセアの代で滅んでしまった。アハズはアッシリアに対して臣従の姿勢を貫いたが、親アッシリア政策の一環としてアッシリアの神々崇拝を導入したため、旧約聖書では背教者的に記述されている。このユダ王国の危機に預言活動を開始したイザヤは、民心と王の動揺に「落ち着いて静かにしていなさい(7:4)」と軽挙妄動を戒め、 アラム(シリヤ)王レツィンとエフライム(北イスラエル)王ペカの攻撃は成就しないという託宣を伝える。イザヤは、アッシリヤの軍より、主の助けを願って、その救援のしるしを祈り求めよと王アハズに忠告するが、王は聞き入れなかった。アハズ王の不信仰に絶望し、次に生れる王子(ヒゼキヤ王)こそがインマヌエル(神と共にいる)となると預言した。これ以降、北イスラエルは消滅し、ユダ王国は単一王国となった。

●ヒゼキヤ(BC715~686):アッシリアに反抗した王

アハズの子で、ユダ王国の第13代の王。25才で王位に就き、母は祭司ゼカリヤの娘アビ(歴代誌ではアビヤ)。ゼカリヤは祭司ヨヤダの子で、ヨアシ王に殺害された人物と同名だが時代が合わないので、アビはゼカリヤの孫か子孫にあたるのか。ゼカリヤ殺害の復讐としてヨアシ王自身が暗殺されて墓に葬られなかったので、ゼカリヤへの「国の民」の支持が高かった事が窺える。ヒゼキヤがゼカリヤの子孫で、ゼカリヤの支持者を背景に即位したと考えるなら、ヒゼキヤの背後には強力な祭司勢力が控えていた事になる。列王記はヨシヤ王こそダビデに匹敵する偉大な王として賞賛しているが、ヒゼキヤについては良評価にすぎない。一方、歴代誌はヒゼキヤこそ律法を確立した偉大な王と高評価と、編者の宗教観の違いが見られる(列王記の申命記史家は宗教史にあまり関心がなく、歴代誌の祭司系は宗教史に重点を置いている)。歴代誌下によれば・・・ヒゼキヤ王はまず宮潔めを行い、アハズ王の置いた異教的祭具をすべて神殿から運び出してギデロン川に捨て、律法に則った形で犠牲を捧げている。また、北の人々に、エルサレムで共に過越祭を守ろうと呼びかけている。ヒゼキヤはユダだけでなく、エフライム、マナセに祭壇も破壊しエルサレム神殿での祭儀に集中させた・・・とされているが、列王紀23章では、歴代誌のヒゼキヤの活動がヨシヤ王の業績として記されている。しかも、このヨシヤが過越祭を初めて行った王であるので、歴代誌の方が改竄された内容と考えられる。

ヒゼキヤは、当初父親と同じく親アッシュリアの態度をとっていたが、やがて反アッシリア政策を取る。神殿からアッシリアの祭具を捨てたのも、反アッシリアの姿勢を見せるためだろう。この後、各地でアッシリアに対して反乱が起こり、特にサルゴン2世(前722-705)の時代に、バビロンでカルデア人メロダク・バラダンが反乱を起こし、一時的に独立を達成する。シリア、カナンも独立運動が起こり、ヒゼキアもこれに加わり、ツロ、フェニキア、ペリシテ、アンモンと同盟を結び、アッシリアへの朝貢を止めた。この時期、ヒゼキヤは攻城戦に備えてギボンの泉からシロアムの池までの地下水道トンネルの土木工事を行なった。この工事の完成を祝いトンネルの壁に工事の模様を記したシロアム碑文が残されている。これは古代ヘブル文字で書かれた文章で、捕囚前のヘブル語の状況を示す貴重な資料となっている。また北イスラエルが滅亡直前に頼みとしたエジプトは、それまで国内が4つに分裂していたが、エチオピア人シャバカが統一する。ヒゼキヤはイザヤの反対を押し切り統一エジプトへ支援を求め、またアッシリアに対抗するための反アッシリア同盟を目論むバビロンの王メロダク・バラダンの使節がエルサレムにやって来る。イザヤは、この使節の見た宮殿の宝物がすべてバビロンに取り去られる日が来ると預言するが、それに対してのヒゼキヤの「あなたが言われた主の言葉は結構です、せめて自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことではなかろうかと思ったからである(列王下20:19)」の言葉は、平和を目指す王としては正論だろう。神からの厳しい罰を告げる預言者は、何故平和をもたらす神の言葉を告げないのか?後の知恵文学で神義論が問われるようになる。

こうした反アッシリアの動きに対して、アッシリアの王センナケリブは前701年にパレスチナに軍を動かし、ラキシ(ダンの別名)を拠点に、ツロ、ペリシテ、エジプトを打ち破った。モアブ、アンモン、エドムは直ちにアッシリアへの恭順を示すが、ヒゼキヤだけは反アッシリアの姿勢を取り続けたために、センナケリブ軍の攻撃がエルサレムに向う事となった。この時の歴史資料は、列王紀、歴代志、アッシリア資料、ヘロドトスといくつもある。これらが相互に矛盾するところがある。列王紀によれば、センナケリブの将軍ラブシャケはエルサレムを囲み、ユダヤの言葉でもって降伏を呼びかけて、それに対してユダの指導者たちが民の動揺を恐れ、「どうかアラム語で話してください。私たちはそれを理解できます」と語っている。預言者イザヤはアッシリア軍の退却を預言し、神がエルサレムを守ると強く訴え(列王下19章、イザヤ書37:35)、アッシリア軍は天使により滅ぼされ、王は自国の王子に殺された事が記されている。

しかし、歴史的事実はユダの勝利とは全く言えない。前701年のアッシリヤ王センナケリブは大軍を率いてパレスチナに南下して、フェニキヤ・ペリシテを占領、南ユダ王国の国境は破られてラキシ(戦いの様子がアッシリアのレリーフに詳細に描かれていて、現在は大英博物館に納められているが、悲惨な敗北だった)などの町は次々と崩壊し、残されたエルサレムはセンナケリブの大軍に包囲され、最悪の風前の灯状態に置かれた。陥落が目の前に迫った時、ここで何故かセンナケリブの大軍は包囲を解いてニネベに戻っている。直後にヒゼキア王はアッシリアに銀300タラント金30タラントの朝貢をして、見かけ上は円満解決したように見えるが。考古学のラキシの発掘(二千名のアッシリア軍の死体が無造作に折り重なるように投込まれていた)から判明した事実は、伝染病であった事が推定されている。ネズミを媒介とする伝染病は(ペストが最も怖い)、当時エジプトでも発生していて、色々な時代に発生して恐怖に駆られた戦争より怖い伝染病により、ラキシからエルサレムに移動して多数の感染死者が発生したため、戦意喪失し恐怖でニネベに戻ったと考えて良さそうだ。もう一つはアッシリア国内に不穏な情勢があったことが考えられているが。さすがにヒゼキアはアッシリアの脅威が忘れられず、直後に貢物を贈ったのだろう。しかしこの退却は民衆には奇跡と映ったようで、アッシリア軍の退却に驚き喜びの声を挙げた。ここからエルサレム不滅信仰が生まれ、ローマ帝国とのユダヤ戦争でもエルサレム陥落はないと直前まで信じていたが、呆気無く陥落して茫然自失に陥っている。アッシリアに帰ったセンナケリブが彼の息子に殺されたのは史実で、エサルハドンは父を殺した兄達を撃ち王位に就いた(前681ー669年)。

やがてヒゼキヤは病気になり、イザヤはヒゼキヤの死を預言するが(誰でも必ず死ぬので、こうした預言は預言とは言いがたい)、ヒゼキヤが癒しを祈ったので、神はヒゼキヤの余命を15年延ばしたとの奇跡伝承があるが、癒しのしるしとして日影が10度退かされた物語も付加されているが、太陽が戻るという奇跡は全くの創作だが、当時日時計が使われていた事は興味深い。この時代の祭司長はツァドクの子孫アザリヤだった。この時代に「イザヤの黙示」という文書が存在したようで(歴代下32:32)、これが今日の第一イザヤ書(イザヤ書は記述された時代と内容から3つに分類される)のもとになったと思われる。ヒゼキヤは、父王アハズが従属国として導入した、アッシリヤの祭儀を拒否して、エジプトの後押しで反乱を起こしたが、アッシリヤの侵攻を招き、結局アッシリアに従属を誓い朝貢した。しかし、異教祭儀の拒否と強大国アッシリアへの抵抗が、歴代誌編者や申命記史家からも評価され、これがイザヤの「インマヌエル」預言(ヒゼキヤ王子の誕生預言)と重ね合わされたのだろう。
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