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遠藤周作「わたしが・棄てた・女」

遠藤周作「わたしが・棄てた・女」

(あらすじ)--------------
大学生の吉岡努は、拾った芸能雑誌の文通欄に名前のあった森田ミツと知り合い、2度目のデートの際、裏通りの安旅館に連れ込み強引に体を奪った。しかし、やや小太りで田舎臭いミツに魅力を感じるどころか嫌悪感すら覚えた吉岡は、以後一切彼女に会うことをしなくなった。吉岡を一途に愛し続けるミツであったが、彼女の手首には赤いあざがあった。大学を卒業した吉岡は、勤め先の社長の姪である三浦マリ子と親しくなり、かつてマリ子がミツと共に同じ石鹸工場で働いたことがあることを知る。さらに当時開業したばかりのソープランドへ行き、ソープ嬢からミツがここでも働いていたと知る。ミツが気になる吉岡は、ある日ミツと再会するが、彼女はハンセン病の疑いがあり、精密検査のために御殿場の病院に行かなければならないことを涙ながらに訴えた。そんなミツに対し吉岡は、おざなりな慰めの言葉をかけ、逃げるようにその場を立ち去った。はじめは病院に強烈な抵抗を抱いていたミツだが、次第に解け込むようになる。だがその矢先にミツは誤診であり、ハンセン病ではないことがわかる。それまでにない喜びを感じ東京へと戻ろうとするミツだったが、急に孤独感を深め、患者としてではなく今度は奉仕の日々を送る修道女たちを手伝うために、病院へと戻ってしまう。マリ子と結婚した吉岡は、ミツのことが気になり年賀状を送るが、ひとりの修道女から返事が届き、ミツが交通事故で死亡したことを知る。その長い手紙には、命の灯が消える間際、ミツの遺した言葉が記されていた。
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この作品は、吉岡努の視線から描いた「ぼくの手記」と、森田ミツの視線から描いた「手首のあざ」の二つの視点で描かれている。遠藤周作の作品のうち、純文学作品に対して軽小説に位置づけられる作品の中で、広く読まれている小説である。読者の感想も、様々なものがある。この作品は、映画やミュージカルにもなった。遠藤周作は、死のちょっと前に、このミュージカルを見学して泣いたと言われる。小説のモデルとなったのはハンセン氏病の病院だった復生病院の婦長の井深八重さん。

ほとんどの読者は、主人公は聖女のような薄幸の女性ミツだと思うだろう。確かにミツが登場しなければ小説は成り立たない。しかし、本当の主人公は吉岡努だと、私は思う。お涙頂戴の小説とも異なる。ゆえに、読者の中には後味が悪いと感じた人もいるようだ。前の頁にあるように、自分は利他主義だと思う人でも、大なり小なり自分の利を考えている。「いや違うよ」と言う方がいるかも知れないが、純粋に利他主義に徹する事が出来る人は奇跡的に少ない。そうでないと言うのならば、難民など社会的弱者がいる状況はもっと緩和されているだろう。吉岡は屑だと言うなかれ、誰にでもある事で、我々も自他主義にすぎないと知るべきだろう。遠藤周作は、吉岡を読者に投影していると考える。つまり主人公は、投影された読者自身なのだと思う。

吉岡は貧乏学生だが、貧乏はもうごめんだ、金と女と出世が欲しいという、言ってみれば世間に一般的に非常に多いタイプだ。女性で言えば、良い男と一緒になって、良い家に住み、良い洋服を着て、暇を作っては美味しいものを食べて旅行でもしたいという、多くの女性が願っているのと本質的には変わらない。実際、自分では気がつかないだろうが、行っている事は大なり小なり吉岡となんら違いが無い。一方。ミツは明らかにイエスが投影されている。通常は、愚かな女、馬鹿な女、田舎者の要領の悪い女、しかし一途に愛する女と思われるだろう。

イエスは、ガリラヤの寒村で生まれ、ほとんどをガリラヤでの宣教と癒やし活動を行った。最下層民に身を置き、被差別者、罪人、ユダヤ教からは無資格者とされた男女を、来たるべき神の国では、もっとも大いなる人とされると説いた。イエスは「神の先行する赦し、無償の愛、無条件の愛」で行動した。神がイエスを動かした。イエスは、家族からは、気が狂っているので引き取りたいと思われ、実際に連れ戻すために来たが、イエスは自分の周囲にいる人達を自分の母・兄弟・姉妹と言って拒否している。宗教指導者からは、悪霊の頭と罵られ、領主からは抹殺されそうになる。エルサレムの都に上って、祝祭の時に、集まってくる住民に宣教しようとしたが、神殿大祭司・神殿貴族の奸計で、住民は扇動されて十字架刑を要求し、ローマ総督ピラトから十字架刑を言い渡される。イエスは十字架を背負ってゴルゴタに行き、人からバカにされ、嘲られ、罵られた。最後は、神の助力もなく絶叫の中でボロボロになって死んでゆく。確かに悲惨であり、かつ愚かに見えるが、その愚かさの中に愛があり、愛の中には愚かさがある。人間の小利口が、実は本当の愚かさである事を示している。これを理解していないと、この小説は結末がない小説と思い込んでしまう。

ミツは病院にいる療養患者(被差別者、貧者、社会から疎外された人々の象徴)のために、栄養がある卵(命のパン)を運んでいて、交通事故で亡くなる、卵を守ろうとして。息を引き取る直前に、吉岡への言葉を残し。吉岡は、宴会に招いても招いても参加しない人が象徴されている。その話は、イエスが語った「見失った羊(イエスの周囲に集まった者達は社会から阻害され排除された者が多かったが、そうした一人でも欠ける事がない世界こそが神の国である)」「大宴会への招待(神の招きは、断られても断られても弛まぬ招きであり、無条件にすべての人に開かれている。招きを断った者は、再度腰を落ち着けて考えてみる必要がある)」などの譬え話の内容も示唆している(神はまれに見る非常にお人好し、途方もなく人を愛している、裏切られても諦めない方だ)。このように、ミツはイエスの象徴であり、その背後に誰にも見えないかも知れないが、神がいる・・・と遠藤周作は伝えようとしたのではないか。吉岡はミツを棄てたつもりだが、何故か気になり、電話まで掛けて消息を知ろうとする。そして、最後にミツ(永遠の同伴者イエスと神の象徴)の最後の言葉を聞く。吉岡がその後どう生きるかは、心に痕跡を残された吉岡の判断に委ねられている。
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