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オ・ヘンリー「賢者の贈り物」、「最後の一葉」

オ・ヘンリー「賢者の贈り物」、「最後の一葉」

オ・ヘンリーの短編小説の紹介の最後に、代表的であまりにも世界的に有名な二編について。価値観と生き方についての洞察が表されている気がする。オ・ヘンリーの考えがよく現れている傑作だろう。細かい描写は省いているので、是非全文を読まれますように。

●賢者の贈り物(原題:The Gift of the Magi、1905年)

オー・ヘンリー作
青空文庫 結城浩訳
http://www.hyuki.com/trans/magi.html

(あらすじ)

アメリカにジムとデラという貧しい若夫婦がいた。明日はクリスマスというのに、家の蓄えはわずか1ドル87セントしか残っていなかった。互いに愛する者のためにプレゼントを買ってあげたくても、そのお金がない。この夫婦には、それぞれが大切にしていた宝物が二つあった。夫のジムは金時計、妻のデラは自分の長い美しい髪。妻のデラは、何としても夫が自慢する金時計につける鎖を、贈物として買おうと決心する。そのために、誰もが羨む自慢の髪の毛を売ってお金を工面したのだ、髪の毛はそのうち伸びるから・・・。一方の夫ジムも、何としても愛する妻の美しい髪を飾る櫛を買おうと、自慢の金時計を売ってしまった。二人はもっとも大事なものを売り、相手のための贈り物を買ったわけだ、皮肉なすれちがいであったが。ジムはデラにこう語りかける「ねえデラ。僕達のクリスマスプレゼントは、しばらくの間、どこかにしまっておくことにしようよ。いますぐ使うには上等すぎるよ。櫛を買うお金を作るために、僕は時計を売っちゃったのさ。さあ、チョップを火にかけてくれよ」

この物語の最後は、「東方の賢者は、ご存知のように、賢い人たちでした―すばらしく賢い人たちだったんです―飼葉桶の中にいる御子に贈り物を運んできたのです。東方の賢者がクリスマスプレゼントを贈る、という習慣を考え出したのですね。彼らは賢明な人たちでしたから、もちろん贈り物も賢明なものでした。たぶん贈り物がだぶったりしたときには、別の品と交換をすることができる特典もあったでしょうね。さて、わたくしはこれまで、つたないながらも、アパートに住む二人の愚かな子供たちに起こった、平凡な物語をお話してまいりました。二人は愚かなことに、家の最もすばらしい宝物を互いのために台無しにしてしまったのです。しかしながら、今日の賢者たちへの最後の言葉として、こう言わせていただきましょう。贈り物をするすべての人の中で、この二人が最も賢明だったのです。贈り物をやりとりするすべての人の中で、この二人のような人たちこそ、最も賢い人たちなのです。世界中のどこであっても、このような人たちが最高の賢者なのです。彼らこそ、本当の、東方の賢者なのです。」と結んでいる。

(書評)

この物語は、現実的に言えば全く無駄な買い物・贈り物である。行き違いも良いところだ。タイトルが『愚者の贈り物』とあれば、より際だったと思う。しかし、オ・ヘンリーはここで、無価値なものの背景にある夫婦の心の価値を描いている。デラはクリスマスを前に1ドル87セント(現在の価値で言えば数千円)しか残っていないと泣く。節約して節約してこうなのだ、夫婦の今の人生はすすり泣きで成り立っているのかもしれない。デラは鏡の前で自慢の美しい髪を眺めながら、涙を振り切り、青ざめた顔で決意する。愛する夫のために、夫の自慢の金時計(それは父また祖父から譲り受けたものだ)に不足しているプラチナ製の鎖を買おうと・・・その為には自分の自慢の髪の毛を売る。20ドルで売って、21ドルで鎖を買う、残りはわずか87セント、だがデラはあの時計にこの鎖が最もよく似合うと興奮する。家に帰り、残った髪の毛をカールしながら、夫が自分の髪の毛を見てどう思うか心配しながらも、帰宅を待つ。ここまで夫のジムについてはほとんど説明がない。

そこでようやくジムが帰宅する。愛する妻の髪の毛を見て、ほとんど腑抜けの状態になる。デラは『ねえ、今夜はクリスマス・イブよ。優しくして。あなたのためにしたことなのよ。私の髪の毛は(神に)数えられていると思うけど(マタイ福音書10:30の引用)…でもあなたに対する私の愛情は誰にも数えられないわ』と告げる。オ・ヘンリーはここで、神であってもデラの夫への愛情は数えられないと言わせている。ジムは呆然自失から覚め、デラを抱きしめる。ジムも愛するテラのために貴重な金時計を売り、ブロードウェーのウィンドーに飾ってある、デラが長くあこがれていた、べっ甲製の宝石をちりばめた高価な櫛セットを買っていたのだ。夫に葛藤がなかったはずはない。行間から夫の涙を読み取らなければならない。互いが欲しい物・必要な物を正しく理解し合っていた。夫婦共に、最も大切にしていた物を、最も大切な者のために売り払っていた。このクリスマスプレゼントは、もはや無価値な物でしかない。でも最後にオ・ヘンリーは、『世界中のどこであっても、このような人たちが最高の賢者なのです。彼らこそ、本当の東方の賢者なのです』と記す。

東方の賢者:新約聖書『マタイによる福音書』2:1-13の箇所だけに(他の福音書には記述なし)、この東方の賢者について記されているが、「占星術の学者たちが東の方から来た」としか書かれておらず、人数は明記されていない。彼らはヘロデ大王に「ユダヤ人の王としてお生まれになったかた」について尋ね、ベツレヘムへ辿りつく。彼らはイエスを見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物として捧げた(この贈り物の数から三人とするのが定着した)。「賢者」と訳される言葉「マーゴイ」(ギリシア語のマギ)の原義は天文学者であったようだ。ゾロアスター教の神官メイジャの意味だとの説もある。

オ・ヘンリーは暗に聖書の「東方の賢者」を批判しているようだ。高価な贈り物を、イエスをユダヤの王と思って贈った東方の賢者よりも、この夫婦が本当の東方の賢者だと言う、『東方の賢者がクリスマスプレゼントという習慣を作り出した。週8ドルと年100万ドルの違いは、数学者にはわからない。東方の賢者の贈り物の中にも、その答えはない。けれども、夫婦の贈り物はもっとも賢明で無駄もなかった』。つまり、一見正論と思えることでも、実際はそうではない場合が多いと言う。物質的価値ばかりが先行する時代(外賢内愚、外見は賢く見えても内実は愚か)、価値とは何かを問うている。物質は有限だが、愛は無限で物の価値を超えている。オ・ヘンリーの小説には、合理主義精神と原理主義的キリスト教を土台とした文化の批判が込められているのかもしれない。

●最後の一葉(原題:The Last Leaf、1907年)

オー・ヘンリー作
青空文庫 結城浩訳
http://www.hyuki.com/trans/leaf.html

(あらすじ)

ワシントン・スクエア西のグリニッチ・ヴィレッジ六番街に、貧しい絵描き達が住んでいた。古い三階建ての煉瓦造りの最上階に、スーとジョンジーがアトリエを持っていた。「ジョンジー」はジョアンナの愛称で、スーはメイン州、ジョンジーはカリフォルニア州の出身だった。二人は八番街の店で出会い、芸術などの趣味がぴったり合った。それが五月で、十一月に入ると、この近辺で肺炎が猛威を振るった。肺炎はジョンジーを襲いベッドに横になったまま動けなくなり、窓ガラスごしに、隣の煉瓦造りの家の何もない壁を見つめ続ける事になった。医者はスーに「助かる見込みは十に一つ。生きたいと思うかどうかにかかっている」と告げた。スーは仕事部屋に入って泣きじゃくった。やがてスケッチブックを持ち、胸を張ってジョンジーの部屋に入っていく。ジョンジーは窓の外を見ながら、つたの葉を逆順に数えていた、「早く落ちてくるようになったわ。三日前は百枚くらいあったのよ。でもいまは簡単。もう残っているのは五枚だけね」。「何が五枚なの?教えて」。「つたの葉っぱよ。最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に行くのよ。お医者さんは教えてくれなかったの?」。「そんな馬鹿な話は聞いたことがないわ」スーは文句を言った。「もうおやすみなさい、ベーアマンさんに年老いた隠遁者のモデルをしてもらわなくっちゃいけないの」とスーは出て行った。

ベーアマン老人は一階に住んでいる、六十を越えて芸術的には失敗者だ。四十年間絵筆をふるってきたが、芸術の女神の衣のすそに触れることすら出来なかった。ジンをがぶがぶのみ、これから描く傑作について語るだけだった。スーはジョンジーの事を老人に話した。老人は赤い目をうるませつつ、馬鹿馬鹿しい想像に軽蔑と嘲笑の大声を上げて、「葉っぱが蔦から散るから死ぬなど、馬鹿なこと考えている人がいるのか。あほ隠居の、のろまのモデルなんかやらんぞ。何でそんなつまらんことをあの子に考えさせるんだ。あのかわいいジョンジーに」。スーは「高熱のせいで、おかしな考えで頭がいっぱいなのよ。いいわよベーアマンさん。私のためにモデルになってくれないなら、しなくて結構。あなたはいやな老いぼれのコンコンチキだわ」と怒った。「あんたも女ってわけだ」と老人は叫んだ、「モデルにならんと誰が言った。あんたと一緒に行くさ。神よ!ここは、ジョンジーみたいな素敵なお嬢さんが、病気で寝込むところじゃない。いつか、わしが傑作を描いたら、わしらはみんなはここを出ていくんだら。神よ!そうだろう」。

スーは老人を別の部屋へ呼び、そこで二人はびくびくしながら窓の外のつたを見つめた。一言も声を出さず、しばし二人して顔を見合わせた。ひっきりなしに冷たい雨が降り続き、みぞれまじりになっていた。次の朝、一時間ねむったスーが目を覚ますと、ジョンジーはどろんとした目を大きく開いて、窓の外を見つめていた。打ち付ける雨と激しい風が長い夜の間荒れ狂ったというのに、つたの葉が一枚、煉瓦の壁に残っていた。それは、最後の一枚の葉だった。「これが最後の一枚ね。昨晩のうちに散ると思っていたんだけど。風の音が聞こえていたのにね。でも今日、あの葉は散る。一緒に私も死ぬ」。昼が過ぎ、たそがれどきになっても、たった一枚残ったつたの葉は、壁をはう枝にしがみついていた。やがて、夜が来るとともに、北風が再び解き放たれる一方、雨は窓を打ち続け、低いひさしからは、雨粒がぼたぼたと落ちていった。朝が来て明るくなると、ジョンジーはスーに日よけを上げるようにと命じた。しかし、つたの葉はまだそこにあった。ジョンジーは横になったまま、長いことその葉を見ていた。やがて、スーを呼び、「わたしは、とても悪い子だったわ、スーちゃん」と言う。「何かが、あの最後の葉を散らないようにして、わたしが何て悪いことを思っていたか、教えてくれたのね。死にたいと願うのは、罪なんだわ。」

午後に医者がやってきた。帰り際、「よく看病すればあなたの勝ちだ。わたしは下の階にいる別の患者を診なければならん。ベーアマンと言う画家らしいが、肺炎なんだ。彼の方は助からんだろう」。次の日に医者はスーにもう危険はないと告げた。午後、ジョンジーは横になってウールのショルダースカーフを満足げに編んでいた。スーは彼女に、「今日ベーアマンさんが、肺炎のためお亡くなりになったの。病気はたった二日だけだったわ。一日目の朝、自分の部屋で苦しんでいるのを管理人さんが見つけたんですって。靴も服もぐっしょり濡れていて、氷みたいに冷たくなっていたそうよ。あんなひどい晩にいったいどこに行ってたのか、はじめは想像もできなかったみたいだけど、まだ明かりのついたランタンが見つかって、それから、元の場所から引きずり出されたはしごが見つかったのよ。それから、散らばっていた筆と緑と黄色が混ぜられたパレットも。窓の外を見てごらんなさい。最後の一枚のつたの葉を見て。どうしてあの葉、風が吹いてもひらひら動かないのか、不思議に思わない?あ~ジョンジー、あれがベーアマンさんの傑作なのよ。あの葉は最後の一枚の葉が散った夜に、ベーアマンさんが描いたものなのよ」と告げた。

(書評)

この物語は2つの生き方が織り込まれている。一つは、希望をなくして死にかけている赤貧の若い女流画家ジョンジーの生き方、もう一つは、何をやっても駄目な人生を送ってきた赤貧の酔っ払い老画家ベーアマンの生き様だ。

(今でも重い病気なので、当時は生死がかかっていただろう)肺炎になった赤貧の女流画家ジョンジーは、もう人生を半ば諦めかけている。無名で貧しい画家が重い病気になると生きていくのは容易ではない。生きる望みを失い、もう数日で自分は亡くなってしまうのかもしれないと思い込み、それを蔦の葉に投影して、葉の数が減る度に自分で命の火を消そうとしている、まだ若いのに。しかし、医者は十に一の望みがあると言う、「わたしは、自分の力のおよぶ限りのこと、科学ができることはすべてやるつもりだ。でもな、患者が自分の葬式に来る車の数を数え始めたら、薬の効き目も半減なんだよ。もしもあなたがジョンジーに、冬にはどんな外套の袖が流行るのか、なんて質問をさせることができるなら、望みは十に一つから五に一つになるって請け合うんだがね」。ジョンジーに「生きる希望」と「前向きな生き方」を起こさせられるかどうかが物語のポイントになっている。悲しいことに親友のスーには、どうすれば良いのか思案が出てこない、医師の言葉のヒントにも反応しないのだ。

スーは仕事のために、老画家をモデルに絵を描こうとする。その時、心配であったジョンジーの話を老人にしてしまう。酔っ払い老人は軽蔑と嘲笑の大声を上げて、「葉っぱが蔦から散るから死ぬなど、馬鹿なこと考えている人がいるのか。何でそんなつまらんことをあの子に考えさせるんだ。あのかわいいジョンジーに」スーを叱る。親友である彼女が生きる希望を与えられない事を批判したのだ。老人は自らのこれまでの人生で、生きる希望を持って画家を続けてきたのだが、誰にも評価されず自分の才能を生かせなず、そして老いた。しかし、若い女性が馬鹿な考え方をしている。それに対して怒った。スーはそうとは知らずヒステリックに「いいわよベーアマンさん。私のためにモデルになってくれないなら、しなくて結構。あなたはいやな老いぼれのコンコンチキだわ」と叫んでしまう。老人は「あんたも女ってわけだ」叫ぶ・・・ここにオ・ヘンリーの世間の短絡的な女性に対する女性観が現れているかもしれない。

老人は「神よ!ここは、ジョンジーみたいな素敵なお嬢さんが、病気で寝込むところじゃない。いつか、わしが傑作を描いたら、わしらはみんなはここを出ていくんだら。神よ!そうだろう」と、理不尽がまかり通る世界の中で、自分の胸中を神に叫ぶ。旧約聖書ヨブ記の中で、ヨブが神を告発するのに類似している。老人は窓の外の蔦の葉を見て考えたのだろう。植物の葉が落ちて無くなると自分も死ぬと考える事など、自暴自棄にすぎない。それは間違っている・・・それを実証するために、最後の一葉が落ちた後に、人生で最大の傑作「葉の絵」を描いた。描いた葉は落ちない、まさに詐欺的行為だが、マイナス思考をプラスに変える力がある。老人はジョンジーの事を他人事だとは思わなかった。しかし、老人が肺炎で亡くなったのは犠牲では無い。一人が死んでもう一人が助かるという交換の論理は宜しくない。二人とも助かる道を探すべきだ。しかし、世の中は不条理というか思うようにはならない。貧困と暴風雨と年老いた年齢から肺炎に勝てなかった、でも最後の傑作を描き終えてだが。そしてジョンジーは生きる希望を持った。

旧約聖書ヨブ記では、義人が苦しむ不条理な現実に直面し、こうした応報思想について問題提起をしているが、当時の一般民衆にはこうした応報思想がまだ広く染みこんでいた。これに対してイエスは、こうした考えを否定する…自分が罪を犯すことなく律法にかなった正しい行為をしておれば救われている…と言う自分の義を立てる姿勢に対し、人間の尺度から判断する義人も罪人も差別もない事を伝えている。災害や病で亡くなった者は、たまたま出遭った不幸な出来事であり、災害に遭わなかった者は単に運が良かっただけだ。それを不幸は罪の結果だという当時の考え方は、間違いであると非難している。ここで重要な事は、そうした不幸な出来事をを他人事(人事)と思わず、自分にも関係する事だと思い、共感して助け合う事を促している点にある。

最後の一葉は散ったけれど、老人が描いた一葉は生きていた。「わたしは、とても悪い子だったわ。何かが、あの最後の葉を散らないようにして、わたしが何て悪いことを思っていたか、教えてくれたのね。死にたいと願うのは、罪なんだわ」、窓から見たジョンジーは老人が語る何かを悟ったのだろうか?不条理の中でも前向きに生きる、生と死があるなら、生を考えれば良い。いつかは誰でも死ぬのだから。この老人の姿には、酒の飲み過ぎで肝硬変で家族とも離れて亡くなったオ・ヘンリーの生き方が投影されているかもしれない。
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