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世界一癒やされる音楽「ウェイトレス」

世界一癒やされる音楽「ウェイトレス」

現在最も癒やされる音楽とされるのは、マルコニ・ユニオンが作曲した「ウェイトレス(weightless、無重力)」という作品と言われる。この曲はマルコニ・ユニオンがイギリス音楽療法学会と合同で制作した曲で、2011年にマインドラボ研究機関によって効果ありとされた。2011年の実験では、40人の女性被験者を対象に、まず時間制限のあるパズルを解いてもらい、ストレスレベルを上げさせた。その後、ストレスを下げる為に、この曲を含む「リラックスできる」とされるモーツァルト、エンヤ、コールドプレイ等が作曲した楽曲を聴かせた。その結果、この曲がもっともリラックス効果が期待でき、数人の被験者に至っては「強い睡魔を誘われた」と語っている。他の曲に比べて「11%以上のリラックス効果」、「65%の緊張度低下」、「35%以上の心拍数低下」が見られたと言う。この曲はギター、ピアノ、エレクトロ等を合わせて作られていて、心拍数・血圧・コルチゾール(ストレスホルモン)を下げる効果があるとされる。


 
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視線で「愛情」と「性的欲望」の違いが分かる

視線で「愛情」と「性的欲望」の違いが分かる(シカゴ大)

ScienceNews July 18, 2014.
http://www.sciencenewsline.com/articles/2014071800430054.html

ソウルシンガーのベティ・エヴェレットは「彼が本当に貴方を愛しているかどうかは、キスしてみれば判る」と歌った。しかし、シカゴ大学の研究者による新しい研究では、愛と欲望の違いは目の動きを観察する事で判断出来ると言う。人が何を見つめているかで、その人が本当に愛情を持っているか、それとも単なる性的欲望か、この違いが分かる。研究の結果では、人の目の動きが相手の顔に集中している場合、その人は相手に対して愛情を寄せているが、相手の体に集中している時は相手に対して性的な欲望を感じている事が分かった。「こうした愛情の科学については、これまであまり良く分かっていなかった。しかし、人が相手に対して愛情を抱いているのか、それとも性的な欲望の対象と考えているのかにより、人は異なる視線を見せる」と論文の筆頭著者シカゴ大学研究者( UChicago High-Performance Electrical NeuroImaging Laboratory)ステファニー・カシオッポは言う。研究チームは、この研究成果を学術専門誌「Psychological Science」で発表した。

lovesex.jpg


カシオッポらは、被験者に対して映像パターンを見せてテストを行い、被験者に対して愛と性的欲望という2つの異なる認知状態を起こさせた。このテストから、愛と性的欲望はそれぞれ別の脳領域のネットワークが関連付られている事が判明した。被験者がロマンチックな愛の潜在的なパートナーとして相手を見る場合は、その視線パターンは相手の顔に集中する。しかし、彼または彼女が性的欲求を感じている場合は、被験者は相手の体により多くの視線を集めた。つまり、両者の違いは、瞬時に自動判定が可能だ。欲望の感情と愛の感情の区別については、これまでの愛情の科学ではあまり知られていなかったが、人が見知らぬ人と恋に落ちる場合の応答パターンは、このような視線と自動認識プロセスによる最初の手がかりを与えてくれる。

以前の研究では、脳の領域の異なるネットワークは、愛と性欲によって活性化される事が分かっていた。本研究では、分かち難いロマンチックな愛情と性欲(欲望)、2つの異なる感情や認知の状態を評価する目的で、視覚パターンによる2つの実験を行っている。ジュネーブ大学の男性と女性の学生に、彼らが会った事がなかった人の白黒写真のシリーズを見せた。実験1では、参加者は若い成人異性カップルの写真を見せられた。実験2では、参加者は対面するように直接魅力的な異性の写真を見せられた(写真はいずれもヌードやエロチックな画像は含まれていない)。参加者は手前に置かれたコンピュータで、異なる写真を見て、迅速かつ可能な限り正確に、各写真に写っている人物が性的欲求によるのかロマンチックな愛の感情によるのかを決定するよう求められた。この結果から、脳が両方の感情を処理する時間に差違はなかったが、眼球のトラッキングデータの分析では、被験者が性的欲求かロマンチックな愛を感じたかは、眼球運動パターンの著しい違いとなった。イメージがロマンチックな愛の気持ちを表していると思った場合は、特に視覚的に顔に固定する傾向があった。しかし性的欲求を喚起する画像には、被験者の目は体の他の部分に固定するために、顔から移動する。この効果は男性と女性の参加者で同じであった。

研究チームは、愛に関連する刺激を特定するアイパターンを識別する事で、本研究は性的欲求かロマンチックな愛の感情を区別するバイオマーカーの開発に貢献するかもしれないし、また精神医学およびカップルの治療における日常的な臨床診断に新しい道を提供するだろうと言う。
 
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コーヒーは健康に良いのか?

【2015年4月3日 AFP】長い間議論の的となってきたコーヒー。心臓疾患やパーキンソン病、アルツハイマー病、糖尿病などの予防効果がある可能性があるとの認識が、医療専門家らの間で広がり始めている。複数の研究論文が、「コーヒーは健康に良い可能性がある」と結論付けている。今年米政府が、5年毎に見直しをしている食生活についてのガイドラインを公表し、その中でコーヒーは初めて1日に数杯飲んだとしても概して有害とは言えないとした。米タフツ大学の栄養学・政策学部の教授で、ガイドラインを作成した委員会のメンバーであるミリアム・ネルソン氏はAFPに対し、「あらゆる科学に目を向けた」と述べ、「1日に3~5杯飲んだとしても、健康へのマイナス効果や有害な影響は見られなかった」と説明した。また同氏によると、「適量」は、1日のカフェイン摂取量が500ミリグラム以下だという。コーヒーが健康に良いとされる理由については、現在のところ明らかになっていない。1粒に1000種類の分子が含まれているとされているコーヒー豆。そのコーヒーの恩恵についてネルソン氏と委員会のメンバーで、米コーネル大学で栄養化学を教えるトム・ブレナ氏は、カフェイン以上に、赤ワインやココアなどにも含まれるポリフェノールのような抗酸化物質によるものである可能性があると述べている。

私は1日にコーヒー4杯飲むが、健康かどうかは自分では分からないが、70歳近くまで生きているので、悪いという感覚はない。
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宇宙は無数にある

複数の宇宙が集合しているとする仮説で、多元宇宙はすべての存在を含む。我々が経験出来る歴史的な宇宙に加え、空間、時間、物質、およびエネルギーの全体、そして、それらを記述する物理法則および物理定数なども含まれる。1895年アメリカの哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームズによって造られた語。多元宇宙が含むそれぞれの宇宙は、平行宇宙と呼ばれる事もある。宇宙が一つでないと考える理由は様々だが、一定の根拠をもつ(数物理モデル理論から、ただし観測で確認できない)宇宙論、物理学、天文学において仮説が立てられてきた。これは常識を越えていて、なかなか理解するのは困難だが、宇宙が一つだけと考える研究者は非常に少なくなった(40年前ならSFの話だと嘲笑されたが、現在では真剣に検討されている)。そこで、代表的な多元宇宙論を見てみると・・・

1.観測可能な宇宙の果ての外側?

我々の宇宙に果てはあるのか?難問だ。観測可能な宇宙は138億年弱、宇宙が誕生してから138億年だからだ。130数億年の銀河を天体望遠鏡が観測しているが、それは130数億年前の光、過去の姿を見ている。現在は膨張しているので、半径470億年くらいになる。それより先は分からないし、調べようがない。マサチューセッツ工科大学マックス・テグマークは、そこから先も空間は無限に広がっているが、我々の宇宙の時空間とは異なるもので、交流は全く出来ないという。そこには別の宇宙がある、これをレベル1の宇宙と名付けている。

2.泡宇宙 (Bubble Universes)

(A)インフレーション理論による連鎖泡宇宙論

インフレーション理論は、東大の佐藤勝彦氏と物理学者アラン・グースが考えた。宇宙が誕生した時までは秩序がなく、真空のエネルギーが満ちていた。ここで真空の相転移が起こり、潜熱が放出され、真空エネルギーの斥力によって加速膨張がおこり、これがビッグバン(火の玉)に繋がった。インフレーション瞬間の膨張速度は、一瞬のうちに太陽系以上の大きさになるほど急速で、その爆発的な膨張速度から、佐藤氏は「指数関数的膨張モデル(インフレーションモデル)」と名付けた。真空エネルギーの密度は常に一定であるため、宇宙が膨らむと真空エネルギーの総量も増大する。その後COBEやWMAP観測衛星やその他の観測機械によって次々と実証されてきている。同時に、あらたな謎を提示した、宇宙の大部分を占める正体不明の物質ダーク・マターと、正体不明の力とされるダーク・エネルギーだ。ダーク・マターは銀河系の構成物を観察した時、外側が早く動いている事から発見された。ダークマターは銀河系を囲むように存在しており、その正体はニュートリノやニュートラリーノや中間子に似た素粒子ではないかと推理されている。ダーク・エネルギーは、宇宙がその後も加速膨張している事で存在が発見された。そしてインフレーション宇宙論から、マルチバース(多元宇宙)という概念が生まれた。真空のエネルギーによるインフレーションは、一様に起こるのではなく、局所的におこる。この過程で、泡のように子宇宙、孫宇宙が発生する。これら宇宙同士は最初はワームホールで繋がっているが、やがて切り離され、それぞれが単独の宇宙(もはや行き来する事は出来ない)となり、その宇宙もインフレーションを続けるので、子宇宙、孫宇宙・・・と続いていくという理論だ。この場合、物理法則や基本的な物理定数が私たちの宇宙と類似している可能性が高い。

(B)永久のインフレーションによる複数泡宇宙論

無からの宇宙創成を考えたソ連生まれの物理学者アレキサンダー・ビレンキンやロシアの理論物理学者アンドレイ・リンデは、「永久(永遠)のインフレーション」と呼ばれる理論を提唱し、これによる別の宇宙が多数生成される可能性がある事を示した。この理論では、宇宙全体では膨張がストップするような箇所があったり (ポケットと呼ぶ)、膨張し続ける箇所があったりするおかげで、数多くの孤立した「泡宇宙」が生成される。つまり、インフレーションに終止符が打たれ、数々の恒星や銀河が形成された私たちの暮らす宇宙は、空間の広大な「海」におけるちっぽけな「泡」のようなものであるとみなす。中にはいまだに膨張し続けている泡も存在し、広大な「海」には我々の泡に似た泡が、他にも数多く含まれていると考える。これら泡宇宙の中には、物理法則や基本的な物理定数が私たちの宇宙とは異なるものも存在する可能性があるので、想像もつかない奇妙な宇宙がある可能性が考えられる。

3.平行(並行)宇宙 (Parallel universes)

しかしその後、ダークエネルギーの観測値が、理論値よりも遙かに遙かに少ないという結果が出た(0.の後に0が120個も続く)。大変な謎だが、多元宇宙が無数に近く(超弦理論の解からは、10の500乗個)あると考えれば、ダークエネルギー量が少ない~多い宇宙がある事になり、我々の宇宙がダークエネルギーが少ない理由も理解出来る事になる。超弦理論 (超ひも理論、エドワード・ウィッテンのM理論は11次元、4次元を超える理論をまとめて余剰次元と呼ぶ)が登場すると、その数学的解析から解釈から、至る所で平行宇宙が無数に現れる。この理論では一つの宇宙を膜世界 (ブレーンワールド)と考えるが、膜宇宙は我々の手の届かない(重力だけは行き来できる可能性がある)ところで漂う平行宇宙の存在を示していている。コロンビア大学物理学者ブライアン・グリーンは、「私たちの宇宙は、より高次元の空間に漂っている、数あるパン切れのようなものの一つであるという考えである。さながら、一固まりの雄大な『宇宙ローフ』の中にある一切れのようなものであるとみなせる」と語る。この理論の発展形では、膜宇宙同士はいつも波打っていて、まれに互いに接触する事があるとする。つまり、膜宇宙同士はまれに互いにぶつかり合ってビッグバンを繰り返す、そのたびに宇宙が何度もリセットされると言う。この宇宙論は、ダークエネルギー、永久のインフレーション、超弦理論の3つの柱からなる。この理論では、我々にそっくりな宇宙もあると考える。

4.多世界解釈による平行宇宙

量子力学は、「可能性・確率」という数式で世界が記述される(不確定原理と波動方程式など)。量子力学で数学的に示唆されるのは、起こる可能があるあらゆる結果は、それぞれの別の宇宙で起こるとする考え方だ。シュレージンガーの猫で有名だが、箱を開けるまでは、猫が生きているか死んでいるかは分からない、開けてみて初めて分かる。量子力学を応用した考え方によれば、測定(選択)の際に宇宙は枝分かれをする。可能性がある数だけ宇宙は枝分かれをしていると考えるのだ。前述のブライアン・グリーンは、「そして、それぞれの宇宙には『あなたのコピー』が存在していて、どの方向に進んだのかという結果をそれぞれに目撃している。もちろん、それぞれのあなたが、『いま、私の体験している現実こそが唯一の現実なのだ』と誤った考えを巡らせながら」と述べる。

5.数学的な宇宙 (mathematical universe、階層宇宙)

「数学で表現できないものはない」と豪語するのは、マサチューセッツ工科大学のマックス・テグマーク教授だ。「数学的な構造というのは、人間的な重荷からは完全に独立した方法で記述することのできる、何かです」と語る。数学は、単に宇宙を記述するのに有用なツールであるだけなのか?あるいは数学自体が根本的な現実であるのかについては、長年議論されてきた。後者が本当であるとすれば、我々は宇宙がもつ数学的な性質を完全には知覚していないと言う結論になす。この場合、我々の宇宙を構成している特定の数学的構造は、唯一のものではなくなる。実際、ありとあらゆる可能な数学的構造が、それぞれ独自の宇宙として存在している可能性があるとテグマークは考える。これほど拡張された理論は他にないだろう。テグマークは、よく知られた観測可能な宇宙を越えた宇宙の分類学を作った。テグマークの分類によるレベル(1~4)は、上位になるほど拡張された概念となり、下位のレベルの宇宙を包含する。

(A)レベル1: 我々の宇宙の地平面の向こう

カオス的インフレーション理論は、無限の宇宙を一般的に予測する。この宇宙は無限であり、すべての初期条件を実現するハッブル体積を含むはずである。従って、無限の宇宙は無限の数のハッブル体積を含む。これらすべては同じ物理法則および物理定数を持つが、物質の分布のような配置に関しては、我々のハッブル体積とは異なる。しかしながら、無限に多くのハッブル体積が存在するため、結果的に我々の宇宙と類似するかまたは同じ宇宙すら存在しうる。

(B)レベル2: 異なる物理定数の宇宙

泡宇宙は異なる泡で、それぞれ異なる物理定数を持つ。我々の宇宙はその泡の一つの宇宙である。宇宙のインフレーション理論の変形であるカオス的インフレーション理論では、多元宇宙は全体として拡張しており、その拡張は永遠に続くとされる。しかし、宇宙のある領域は拡張を止め、それぞれ異なる泡の形態を取る。そのような泡は未発達のレベル1多次元宇宙である。異なる泡は異なる自発的対称性の破れを経験する、その結果、異なる物理定数のような異なる性質を持つ。

(C)レベル3: 量子力学における多世界解釈

量子力学の解釈のいくつかある主流の一つが、前述のヒュー・エヴェレットの多世界解釈。量子力学では、ある観測は絶対的に予測出来ない。代わりに、異なる確率を持つ起こりうる観測の幅がある。多世界解釈では、これらの起こりうるそれぞれの観測は、異なる宇宙に対応する。テグマークは、レベル3多元宇宙はハッブル体積内にレベル1~2多元宇宙よりも多くの確率を含まない言う。レベル1およびレベル3の唯一の違いは、どこにあなたのドッペルゲンガーが住んでいるのかの違いである。レベル1では、それらは三次元空間内のあらゆるところに住んでいる。レベル3では、それらは無限次元ヒルベルト空間における他の量子的に分岐した世界に住んでいる。同様に、異なる物理定数を持つすべてのレベル2泡宇宙は、事実上レベル3多元宇宙における自発的対称性の破れの瞬間に分裂によって創られた世界として見出す事が出来る。

(D)レベル4: 究極集合

究極集合仮説はテグマーク自身が提唱した。このレベルは、異なる数学的構造によって記述可能な宇宙はすべて等しく実在すると考える。抽象数学は非常に一般的なので、(人間の曖昧な言葉から独立した)どんな純粋な形式言語で定義可能な万物の理論 (TOE、Theory Of Everything) もまた数学的構造である。例えば、異なる種類の実体(言葉で表現される)やそれらの関係(さらなる言葉で表現される)を含むTOEは、数学者が集合論的モデルと呼ぶものに他ならず、一般的にその集合論的モデルを構成する形式体系を見出せる。あらゆる想像する事が出来る平行宇宙理論はレベル4の段階で記述可能であると暗示する。これが多元宇宙の階層の上限となるようだ。

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オ・ヘンリー「賢者の贈り物」、「最後の一葉」

オ・ヘンリー「賢者の贈り物」、「最後の一葉」

オ・ヘンリーの短編小説の紹介の最後に、代表的であまりにも世界的に有名な二編について。価値観と生き方についての洞察が表されている気がする。オ・ヘンリーの考えがよく現れている傑作だろう。細かい描写は省いているので、是非全文を読まれますように。

●賢者の贈り物(原題:The Gift of the Magi、1905年)

オー・ヘンリー作
青空文庫 結城浩訳
http://www.hyuki.com/trans/magi.html

(あらすじ)

アメリカにジムとデラという貧しい若夫婦がいた。明日はクリスマスというのに、家の蓄えはわずか1ドル87セントしか残っていなかった。互いに愛する者のためにプレゼントを買ってあげたくても、そのお金がない。この夫婦には、それぞれが大切にしていた宝物が二つあった。夫のジムは金時計、妻のデラは自分の長い美しい髪。妻のデラは、何としても夫が自慢する金時計につける鎖を、贈物として買おうと決心する。そのために、誰もが羨む自慢の髪の毛を売ってお金を工面したのだ、髪の毛はそのうち伸びるから・・・。一方の夫ジムも、何としても愛する妻の美しい髪を飾る櫛を買おうと、自慢の金時計を売ってしまった。二人はもっとも大事なものを売り、相手のための贈り物を買ったわけだ、皮肉なすれちがいであったが。ジムはデラにこう語りかける「ねえデラ。僕達のクリスマスプレゼントは、しばらくの間、どこかにしまっておくことにしようよ。いますぐ使うには上等すぎるよ。櫛を買うお金を作るために、僕は時計を売っちゃったのさ。さあ、チョップを火にかけてくれよ」

この物語の最後は、「東方の賢者は、ご存知のように、賢い人たちでした―すばらしく賢い人たちだったんです―飼葉桶の中にいる御子に贈り物を運んできたのです。東方の賢者がクリスマスプレゼントを贈る、という習慣を考え出したのですね。彼らは賢明な人たちでしたから、もちろん贈り物も賢明なものでした。たぶん贈り物がだぶったりしたときには、別の品と交換をすることができる特典もあったでしょうね。さて、わたくしはこれまで、つたないながらも、アパートに住む二人の愚かな子供たちに起こった、平凡な物語をお話してまいりました。二人は愚かなことに、家の最もすばらしい宝物を互いのために台無しにしてしまったのです。しかしながら、今日の賢者たちへの最後の言葉として、こう言わせていただきましょう。贈り物をするすべての人の中で、この二人が最も賢明だったのです。贈り物をやりとりするすべての人の中で、この二人のような人たちこそ、最も賢い人たちなのです。世界中のどこであっても、このような人たちが最高の賢者なのです。彼らこそ、本当の、東方の賢者なのです。」と結んでいる。

(書評)

この物語は、現実的に言えば全く無駄な買い物・贈り物である。行き違いも良いところだ。タイトルが『愚者の贈り物』とあれば、より際だったと思う。しかし、オ・ヘンリーはここで、無価値なものの背景にある夫婦の心の価値を描いている。デラはクリスマスを前に1ドル87セント(現在の価値で言えば数千円)しか残っていないと泣く。節約して節約してこうなのだ、夫婦の今の人生はすすり泣きで成り立っているのかもしれない。デラは鏡の前で自慢の美しい髪を眺めながら、涙を振り切り、青ざめた顔で決意する。愛する夫のために、夫の自慢の金時計(それは父また祖父から譲り受けたものだ)に不足しているプラチナ製の鎖を買おうと・・・その為には自分の自慢の髪の毛を売る。20ドルで売って、21ドルで鎖を買う、残りはわずか87セント、だがデラはあの時計にこの鎖が最もよく似合うと興奮する。家に帰り、残った髪の毛をカールしながら、夫が自分の髪の毛を見てどう思うか心配しながらも、帰宅を待つ。ここまで夫のジムについてはほとんど説明がない。

そこでようやくジムが帰宅する。愛する妻の髪の毛を見て、ほとんど腑抜けの状態になる。デラは『ねえ、今夜はクリスマス・イブよ。優しくして。あなたのためにしたことなのよ。私の髪の毛は(神に)数えられていると思うけど(マタイ福音書10:30の引用)…でもあなたに対する私の愛情は誰にも数えられないわ』と告げる。オ・ヘンリーはここで、神であってもデラの夫への愛情は数えられないと言わせている。ジムは呆然自失から覚め、デラを抱きしめる。ジムも愛するテラのために貴重な金時計を売り、ブロードウェーのウィンドーに飾ってある、デラが長くあこがれていた、べっ甲製の宝石をちりばめた高価な櫛セットを買っていたのだ。夫に葛藤がなかったはずはない。行間から夫の涙を読み取らなければならない。互いが欲しい物・必要な物を正しく理解し合っていた。夫婦共に、最も大切にしていた物を、最も大切な者のために売り払っていた。このクリスマスプレゼントは、もはや無価値な物でしかない。でも最後にオ・ヘンリーは、『世界中のどこであっても、このような人たちが最高の賢者なのです。彼らこそ、本当の東方の賢者なのです』と記す。

東方の賢者:新約聖書『マタイによる福音書』2:1-13の箇所だけに(他の福音書には記述なし)、この東方の賢者について記されているが、「占星術の学者たちが東の方から来た」としか書かれておらず、人数は明記されていない。彼らはヘロデ大王に「ユダヤ人の王としてお生まれになったかた」について尋ね、ベツレヘムへ辿りつく。彼らはイエスを見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物として捧げた(この贈り物の数から三人とするのが定着した)。「賢者」と訳される言葉「マーゴイ」(ギリシア語のマギ)の原義は天文学者であったようだ。ゾロアスター教の神官メイジャの意味だとの説もある。

オ・ヘンリーは暗に聖書の「東方の賢者」を批判しているようだ。高価な贈り物を、イエスをユダヤの王と思って贈った東方の賢者よりも、この夫婦が本当の東方の賢者だと言う、『東方の賢者がクリスマスプレゼントという習慣を作り出した。週8ドルと年100万ドルの違いは、数学者にはわからない。東方の賢者の贈り物の中にも、その答えはない。けれども、夫婦の贈り物はもっとも賢明で無駄もなかった』。つまり、一見正論と思えることでも、実際はそうではない場合が多いと言う。物質的価値ばかりが先行する時代(外賢内愚、外見は賢く見えても内実は愚か)、価値とは何かを問うている。物質は有限だが、愛は無限で物の価値を超えている。オ・ヘンリーの小説には、合理主義精神と原理主義的キリスト教を土台とした文化の批判が込められているのかもしれない。

●最後の一葉(原題:The Last Leaf、1907年)

オー・ヘンリー作
青空文庫 結城浩訳
http://www.hyuki.com/trans/leaf.html

(あらすじ)

ワシントン・スクエア西のグリニッチ・ヴィレッジ六番街に、貧しい絵描き達が住んでいた。古い三階建ての煉瓦造りの最上階に、スーとジョンジーがアトリエを持っていた。「ジョンジー」はジョアンナの愛称で、スーはメイン州、ジョンジーはカリフォルニア州の出身だった。二人は八番街の店で出会い、芸術などの趣味がぴったり合った。それが五月で、十一月に入ると、この近辺で肺炎が猛威を振るった。肺炎はジョンジーを襲いベッドに横になったまま動けなくなり、窓ガラスごしに、隣の煉瓦造りの家の何もない壁を見つめ続ける事になった。医者はスーに「助かる見込みは十に一つ。生きたいと思うかどうかにかかっている」と告げた。スーは仕事部屋に入って泣きじゃくった。やがてスケッチブックを持ち、胸を張ってジョンジーの部屋に入っていく。ジョンジーは窓の外を見ながら、つたの葉を逆順に数えていた、「早く落ちてくるようになったわ。三日前は百枚くらいあったのよ。でもいまは簡単。もう残っているのは五枚だけね」。「何が五枚なの?教えて」。「つたの葉っぱよ。最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に行くのよ。お医者さんは教えてくれなかったの?」。「そんな馬鹿な話は聞いたことがないわ」スーは文句を言った。「もうおやすみなさい、ベーアマンさんに年老いた隠遁者のモデルをしてもらわなくっちゃいけないの」とスーは出て行った。

ベーアマン老人は一階に住んでいる、六十を越えて芸術的には失敗者だ。四十年間絵筆をふるってきたが、芸術の女神の衣のすそに触れることすら出来なかった。ジンをがぶがぶのみ、これから描く傑作について語るだけだった。スーはジョンジーの事を老人に話した。老人は赤い目をうるませつつ、馬鹿馬鹿しい想像に軽蔑と嘲笑の大声を上げて、「葉っぱが蔦から散るから死ぬなど、馬鹿なこと考えている人がいるのか。あほ隠居の、のろまのモデルなんかやらんぞ。何でそんなつまらんことをあの子に考えさせるんだ。あのかわいいジョンジーに」。スーは「高熱のせいで、おかしな考えで頭がいっぱいなのよ。いいわよベーアマンさん。私のためにモデルになってくれないなら、しなくて結構。あなたはいやな老いぼれのコンコンチキだわ」と怒った。「あんたも女ってわけだ」と老人は叫んだ、「モデルにならんと誰が言った。あんたと一緒に行くさ。神よ!ここは、ジョンジーみたいな素敵なお嬢さんが、病気で寝込むところじゃない。いつか、わしが傑作を描いたら、わしらはみんなはここを出ていくんだら。神よ!そうだろう」。

スーは老人を別の部屋へ呼び、そこで二人はびくびくしながら窓の外のつたを見つめた。一言も声を出さず、しばし二人して顔を見合わせた。ひっきりなしに冷たい雨が降り続き、みぞれまじりになっていた。次の朝、一時間ねむったスーが目を覚ますと、ジョンジーはどろんとした目を大きく開いて、窓の外を見つめていた。打ち付ける雨と激しい風が長い夜の間荒れ狂ったというのに、つたの葉が一枚、煉瓦の壁に残っていた。それは、最後の一枚の葉だった。「これが最後の一枚ね。昨晩のうちに散ると思っていたんだけど。風の音が聞こえていたのにね。でも今日、あの葉は散る。一緒に私も死ぬ」。昼が過ぎ、たそがれどきになっても、たった一枚残ったつたの葉は、壁をはう枝にしがみついていた。やがて、夜が来るとともに、北風が再び解き放たれる一方、雨は窓を打ち続け、低いひさしからは、雨粒がぼたぼたと落ちていった。朝が来て明るくなると、ジョンジーはスーに日よけを上げるようにと命じた。しかし、つたの葉はまだそこにあった。ジョンジーは横になったまま、長いことその葉を見ていた。やがて、スーを呼び、「わたしは、とても悪い子だったわ、スーちゃん」と言う。「何かが、あの最後の葉を散らないようにして、わたしが何て悪いことを思っていたか、教えてくれたのね。死にたいと願うのは、罪なんだわ。」

午後に医者がやってきた。帰り際、「よく看病すればあなたの勝ちだ。わたしは下の階にいる別の患者を診なければならん。ベーアマンと言う画家らしいが、肺炎なんだ。彼の方は助からんだろう」。次の日に医者はスーにもう危険はないと告げた。午後、ジョンジーは横になってウールのショルダースカーフを満足げに編んでいた。スーは彼女に、「今日ベーアマンさんが、肺炎のためお亡くなりになったの。病気はたった二日だけだったわ。一日目の朝、自分の部屋で苦しんでいるのを管理人さんが見つけたんですって。靴も服もぐっしょり濡れていて、氷みたいに冷たくなっていたそうよ。あんなひどい晩にいったいどこに行ってたのか、はじめは想像もできなかったみたいだけど、まだ明かりのついたランタンが見つかって、それから、元の場所から引きずり出されたはしごが見つかったのよ。それから、散らばっていた筆と緑と黄色が混ぜられたパレットも。窓の外を見てごらんなさい。最後の一枚のつたの葉を見て。どうしてあの葉、風が吹いてもひらひら動かないのか、不思議に思わない?あ~ジョンジー、あれがベーアマンさんの傑作なのよ。あの葉は最後の一枚の葉が散った夜に、ベーアマンさんが描いたものなのよ」と告げた。

(書評)

この物語は2つの生き方が織り込まれている。一つは、希望をなくして死にかけている赤貧の若い女流画家ジョンジーの生き方、もう一つは、何をやっても駄目な人生を送ってきた赤貧の酔っ払い老画家ベーアマンの生き様だ。

(今でも重い病気なので、当時は生死がかかっていただろう)肺炎になった赤貧の女流画家ジョンジーは、もう人生を半ば諦めかけている。無名で貧しい画家が重い病気になると生きていくのは容易ではない。生きる望みを失い、もう数日で自分は亡くなってしまうのかもしれないと思い込み、それを蔦の葉に投影して、葉の数が減る度に自分で命の火を消そうとしている、まだ若いのに。しかし、医者は十に一の望みがあると言う、「わたしは、自分の力のおよぶ限りのこと、科学ができることはすべてやるつもりだ。でもな、患者が自分の葬式に来る車の数を数え始めたら、薬の効き目も半減なんだよ。もしもあなたがジョンジーに、冬にはどんな外套の袖が流行るのか、なんて質問をさせることができるなら、望みは十に一つから五に一つになるって請け合うんだがね」。ジョンジーに「生きる希望」と「前向きな生き方」を起こさせられるかどうかが物語のポイントになっている。悲しいことに親友のスーには、どうすれば良いのか思案が出てこない、医師の言葉のヒントにも反応しないのだ。

スーは仕事のために、老画家をモデルに絵を描こうとする。その時、心配であったジョンジーの話を老人にしてしまう。酔っ払い老人は軽蔑と嘲笑の大声を上げて、「葉っぱが蔦から散るから死ぬなど、馬鹿なこと考えている人がいるのか。何でそんなつまらんことをあの子に考えさせるんだ。あのかわいいジョンジーに」スーを叱る。親友である彼女が生きる希望を与えられない事を批判したのだ。老人は自らのこれまでの人生で、生きる希望を持って画家を続けてきたのだが、誰にも評価されず自分の才能を生かせなず、そして老いた。しかし、若い女性が馬鹿な考え方をしている。それに対して怒った。スーはそうとは知らずヒステリックに「いいわよベーアマンさん。私のためにモデルになってくれないなら、しなくて結構。あなたはいやな老いぼれのコンコンチキだわ」と叫んでしまう。老人は「あんたも女ってわけだ」叫ぶ・・・ここにオ・ヘンリーの世間の短絡的な女性に対する女性観が現れているかもしれない。

老人は「神よ!ここは、ジョンジーみたいな素敵なお嬢さんが、病気で寝込むところじゃない。いつか、わしが傑作を描いたら、わしらはみんなはここを出ていくんだら。神よ!そうだろう」と、理不尽がまかり通る世界の中で、自分の胸中を神に叫ぶ。旧約聖書ヨブ記の中で、ヨブが神を告発するのに類似している。老人は窓の外の蔦の葉を見て考えたのだろう。植物の葉が落ちて無くなると自分も死ぬと考える事など、自暴自棄にすぎない。それは間違っている・・・それを実証するために、最後の一葉が落ちた後に、人生で最大の傑作「葉の絵」を描いた。描いた葉は落ちない、まさに詐欺的行為だが、マイナス思考をプラスに変える力がある。老人はジョンジーの事を他人事だとは思わなかった。しかし、老人が肺炎で亡くなったのは犠牲では無い。一人が死んでもう一人が助かるという交換の論理は宜しくない。二人とも助かる道を探すべきだ。しかし、世の中は不条理というか思うようにはならない。貧困と暴風雨と年老いた年齢から肺炎に勝てなかった、でも最後の傑作を描き終えてだが。そしてジョンジーは生きる希望を持った。

旧約聖書ヨブ記では、義人が苦しむ不条理な現実に直面し、こうした応報思想について問題提起をしているが、当時の一般民衆にはこうした応報思想がまだ広く染みこんでいた。これに対してイエスは、こうした考えを否定する…自分が罪を犯すことなく律法にかなった正しい行為をしておれば救われている…と言う自分の義を立てる姿勢に対し、人間の尺度から判断する義人も罪人も差別もない事を伝えている。災害や病で亡くなった者は、たまたま出遭った不幸な出来事であり、災害に遭わなかった者は単に運が良かっただけだ。それを不幸は罪の結果だという当時の考え方は、間違いであると非難している。ここで重要な事は、そうした不幸な出来事をを他人事(人事)と思わず、自分にも関係する事だと思い、共感して助け合う事を促している点にある。

最後の一葉は散ったけれど、老人が描いた一葉は生きていた。「わたしは、とても悪い子だったわ。何かが、あの最後の葉を散らないようにして、わたしが何て悪いことを思っていたか、教えてくれたのね。死にたいと願うのは、罪なんだわ」、窓から見たジョンジーは老人が語る何かを悟ったのだろうか?不条理の中でも前向きに生きる、生と死があるなら、生を考えれば良い。いつかは誰でも死ぬのだから。この老人の姿には、酒の飲み過ぎで肝硬変で家族とも離れて亡くなったオ・ヘンリーの生き方が投影されているかもしれない。

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