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真田一族と女忍者

真田一族と女忍者

少数兵力が大勢力と戦う場合、諜報活動=情報収集能力でカバーする生きる道がない。真田一族は信濃の小豪族から、曲がりなりにも戦国大名になったが、その名は当時でも広く知られていた。現代でも、大国に匹敵する諜報活動を行っているのは、イスラエルのモサドだと言われる。

1.歩き巫女(みこ)から「くノ一」

巫女とは、主として日本の神に仕える女性で、舞姫や御神子(みかんこ)と称される場合もある。古来より巫女は、神楽を舞ったり、祈祷をしたり、占いをしたり、神託を他者に伝えたり、口寄せなどをする役割だったが、明治以降は神社で神事の奉仕をしたり、神職を補佐する役割へと変化した。柳田國男などの分類では、朝廷の巫(かんなぎ)系と民間の口寄せ系に分けられる。巫系巫女は、関東ではミコ、京阪ではイチコと呼ばれ、口寄せ系巫女は京阪ではミコ、東京近辺ではイチコ、アズサミコ、東北ではイタコと呼ばれた。歩き巫女は、特定の神社に属せず各地を遍歴し、祈祷・託宣・口寄せ(霊媒)・舞いなどで生計を立てる者を言う。中には旅芸人、大道芸人、遊女を兼ねる者もいて、いわばさすらいの巫女。戦国時代になると、この歩き巫女の姿で諸国の情報探索を行う女性が使われはじめ、女の忍者(くノ一)が生まれた。

2.信濃巫(しなのかんなぎ、しなのみこ、ののう)は「武田の忍び」となる

現在の長野県東御市出身で、日本各地を巡った歩き巫女を信濃巫と言う。柳田國男によれば、もともと「ののう」と呼ばれる諏訪神社の巫女で、諏訪信仰の伝道師として各地を歩いていたらしい。戦国時代に孤児・捨て子・迷い子が大量に発生したので、武田信玄はその中から優れた少女を数百人も集めて歩き巫女に養成し、忍びとして全国各地に放った。信玄はその養成と元締めとして、信州佐久郡の豪族・望月盛時の未亡人望月千代女(ちよめ)を抜擢した。千代女は近江国甲賀の甲賀忍び五十三家の筆頭望月家の娘で、信濃国佐久郡の望月本家・望月盛時に嫁していた。盛時は武田信玄の甥だが、第4次川中島合戦で戦死し、彼女は若くして未亡人となった。彼女が甲賀忍者家出身である事から、信玄は彼女を「甲斐信濃二国巫女頭領」に任じ、信州小県郡祢津村 の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を造り、歩き巫女を養成して全国に送ったようだ。

3.真田家の由来、忍びの家系

真田家の由来は諸説在るが、一番信頼性があるのは、信濃国佐久平と上田平にいた滋野一族の支流とする説である。滋野一族は、平安時代の初期、仁明・文徳帝の後宮に子女を送り、勅撰詩文集「経国集」編纂にも携わった滋野貞主を祖とする名族である。その末裔が信濃守となって現地に土着したようだ。滋野一族は後に、海野、祢津、望月の三家に分かれた(滋野三家)。真田家はその一つ海野氏の流れであるのは間違いないようだ。戦国時代のはじめころ、信州小県郡の山間にある真田郷に真田幸隆(幸綱)と名乗る在地の小土豪がいた、これが真田家のルーツである。

(注:真田家の六文銭)旗印である六文銭は、冥銭を表していると言われる。冥銭とは本来古代中国の習俗で、日本では亡くなった人を葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃である。真田幸隆が合戦で死にかけたとき、住職が枕元に六文銭を置いたとの逸話がある。これを旗印にしたのは「不惜身命」を意味するとも言われる。

4.真田家の隆盛「信濃の小豪族から戦国大名へ」

天文10年(1541年)海野平の戦いに敗れた海野棟綱が関東管領上杉憲政を頼って上野国に逃れると、幸隆も上杉憲政の家臣・長野業正の下に身を寄せる。しかし、上杉の援助による旧領奪回が困難になると、信濃侵攻を行っていた甲斐の武田晴信(信玄)に仕えて旧領を回復すると、縁戚の滋野氏の支族が多い信濃や上野方面で活躍し、外様ながら武田家の重臣に抜擢される。信濃先方衆の有力武将として、幸隆のみならず嫡男・信綱、次男・昌輝も活躍し、信綱は家老に、昌輝は信玄直属の百足衆を率いた時、信玄から兵部(昌輝)は我が両目と言わしめた。三男・昌幸は武藤家、四男・信尹は加津野家を継ぎ、真田一族は武田家で重用された。永禄10年(1567年)嫡男・信綱が家督を継ぎ、天正3年(1575年)長篠の戦いで当主・信綱と次男・昌輝が討死すると、三男・昌幸が真田姓に復帰して家督を相続。昌幸は信玄の近習を勤め、武田家滅亡時に武田勝頼に真田要害の地岩櫃城に籠城する事を進言したと言う。天正10年3月、武田氏が滅亡すると、信玄のために働いた祢津村の歩き巫女集団の多くは、望月氏と同族である真田氏に引き継がれた。これが真田の女忍びで、それまでいた男忍び(タジカラ、頭領は禰津信政)と一体化させたと思われる。昌幸は織田信長に恭順し、戦国大名並みになった。講談の中で活躍する真田十勇士に、海野六郎、根津甚八、望月六郎の名が登場するが、真田氏と同族の滋野三家の姓であり、これから創作されたのかもしれない。かつての滋野一族はほとんど真田家に吸収されていたのだろう。

5.秀吉から「表裏比興の者」と言わしめた真田昌幸の「諜報活動」

本能寺の変で信長が横死すると、昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら混乱する信濃で真田家の勢力維持に奔走する。徳川氏と北条氏が甲信を巡って対陣した天正壬午の乱の和議で、上野を北条領とし、真田氏支配の沼田城周辺も北条に割譲し、徳川はその代替地を用意すると定められたが、昌幸はこれを拒否したため、徳川軍七千の攻撃を受けるが、昌幸は二千で上田城を守りきり、これで真田氏は独立した大名として認められる事になった。忍び集団による情報収集と謀略で勇名を馳せたわけだ。その後、豊臣秀吉の臣下に入るが、この時秀吉から「表裏比興の者(くわせ者)よ」と言われ事は、昌幸の忍びによる諜報活動が、如何に優れていたかを示すものだ。そこで、秀吉の命で徳川家康と和解させられ、嫡男・信幸は本多忠勝の娘・小松姫(家康の養女)と縁組みさせられた。これにより、豊臣の家臣である昌幸と次男・信繁(上田城)、徳川の与力大名である長男・信幸(沼田城)の二家体制となったが、要は分断させられたわけが、結局この事が真田家の存続に繋がった。慶長5年(1600年)石田三成らが徳川家康に対して挙兵して関ヶ原の戦いが起こると、昌幸と次男・信繁は西軍に、長男・信幸は東軍に分かれた。昌幸と信繁は上田城で徳川秀忠率いる三万の軍勢をわずか数千で迎え秀忠軍を釘付けにして関ヶ原遅参の原因を作った。結局東軍が勝利し、昌幸と信繁は高野山山麓の九度山に流罪となった。上田領は長男・信幸改め信之に継承され、信之は沼田領と併せて九万五千石を知行して上田藩を立藩した。慶長19年から20年の大坂の役でも信之は徳川方についたが、弟の信繁は豊臣方に参じて家康を手こずらせて討死する。信繁の唯一生き残った次男守信は仙台藩重臣の片倉家に引き取られ、後に陸奥仙台藩士となった。

6.蟄居中の信繁は自堕落になっていた

昌幸と信繁の親子の蟄居生活では、親子別々に屋敷を持ち、父は伊勢国の女や紀伊国長町村の平原の娘を妾にして清光院を生ませ、信繁も女性3人に5人の子供を産ませている。蟄居を監視していたのは、和歌山藩主・浅野幸長であった。信繁と浅野幸長は旧知であったので、九度山から出ない限り自由な生活が許されていた。しかし、連れて来ていた家臣に扶持を払わねばならず、経済的には苦しかった。昌幸は浅野幸長から年間五十石の生活費を受けていたが、嫡男信之からも仕送りがあった。信之の正室小松姫も、気にかけて何度も仕送りしている。昌幸は「三男の真田昌親に依頼していた臨時の仕送り40両のうち20両は受け取ったが、借金が多くあるので、残りの20両を1日も早く届けてくれ。今年の仕送りのうち10両は春までには届けて欲しい。都合が付かなければ、お前が5両でも6両でも持って帰ってくるように」という手紙を書いている。

父の死後、信繁は家臣16人に金を渡して上田へ帰らせたが、高梨内記・柳生清庵・三井豊前の3人は九度山に残り仕えた。父が死んだ翌年に出家し、「伝心月叟」「好白」と名乗る。何の希望もなくなった信繁は、やけっぱちになっていたのだろう。この頃、家臣に金と酒の催促して自堕落な生活を過ごしたため、40歳を超えて急に老け込み、歯もすべて抜け落ち、髭も白髪交じりの小男老人になっている。また、仕送りを受けている実でありながら、家臣の原半兵衛に「そちらの米相場が安い時は、慌てて換金するな。こちらの事情次第で送ってくれ」と、換金方法を指図している。兄夫婦はそれでも、弟信繁を心配して終始仕送りを続けている。

7.最後の死に花、真田信繁(幸村)の真田丸と討ち死に

真田幸村という呼称は江戸時代になってからで、本名は真田信繁である。しかし、今となっては幸村でなければ通じない。方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化すると、大阪方は九度山の信繁の元にも使者を派遣した。信繁は国許にいる父・昌幸の旧臣達と真田の忍びにも参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌と共に大坂城に入った。信繁の率いた軍の鎧を赤で統一したので、真田の赤備えと呼ばれた。冬の陣では、信繁は大坂城籠城案に真っ向から反対し、積極的に討って出て徳川軍勢を迎え撃つよう主張したが、結局受け入れられず、大坂城への籠城策が決定すると、豊臣秀吉が築城の際に悩み込んだ大坂城の唯一の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる出城を築き、鉄砲隊を用いて先鋒隊に打撃を与えたので、徳川勢は撤退せざるを得なかった。この真田丸の戦いで、信繁の武名は天下に広まった。

夏の陣では、道明寺の戦いで伊達政宗隊を一時的に後退させるが、駆けつける前に先行した後藤基次隊が壊滅した。木村重成などの主だった武将も相次いで討死、もはや兵士の士気を高めるためには、秀頼の出陣あるのみと直訴したが、豊臣譜代衆や淀殿に阻まれた。そこで大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を建てた。右翼の真田隊と左翼の毛利隊を四天王寺・茶臼山に布陣し、射撃戦と突撃を繰返して家康の本陣を孤立させ、明石全登隊を迂回させて合図と共に急襲する計画だったが、毛利隊が合図を待たずに射撃を開始したので作戦を断念した。信繁は「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ」と言い、正面から家康本陣に突撃を敢行した。松平忠直隊の大軍を突破し、後方の家康本陣に突入。親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣を破砕した。その凄まじさに、家康は自害を覚悟したほどだったと言う。しかし、結局徳川勢に追い詰められ、ついに四天王寺の神社の境内で、忠直隊の西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」の言葉を残して亡くなった。
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荒木又右衛門の憂鬱

荒木又右衛門の憂鬱

荒木又右衛門は服部平左衛門の次男として忍びの里・伊賀の服部郷荒木村で誕生している。父・平左衛門は、藤堂高虎に仕えていたが浪人し、後に備前岡山藩の池田忠雄に召し抱えられた。兄・弥五助が家督を継いだので、又右衛門十二歳のとき、本多政朝の家臣で親戚の服部平兵衛の養子となった。しかし何故か、28歳ごろに養家を離れて浪人し伊賀に帰っている。故郷で、はじめ菊山姓、のちに荒木姓を名乗った。剣術を学び、父からは中条流、叔父の山田幸兵衛から神道流を学んだと言う。柳生宗矩や柳生三厳の門人となり柳生新陰流を学んだとする説が『柳荒美談』などにあるが、内容が少し矛盾していると言われる。柳生の庄に位置的には近いので、門人となったのは確かではないか。その後、大和郡山藩・松平忠明に剣術師範役250石で取り立てられた(幕府総目付であった柳生宗矩が、自分の弟子達を各藩の剣術指南役に推挙している)。ようやく自分の希望が叶ったのだろう。

父・平左衛門には渡辺数馬(内蔵助)という同僚がいた。この内蔵助の子に、みの、数馬(二代目)、源太夫があり、又右衛門はこの「みの」という女性を嫁に迎えたが、ここからが又右衛門の憂鬱が始まる。

寛永7年(1630年)、備前岡山藩主・池田忠雄は、父が池田輝政で母が徳川家康の次女・督姫であり、家康の外孫にあたり事で、位も参議に登り、自ら備前宰相と自慢していた。この池田忠雄は美男子として知られた渡辺内蔵助の息子・源太夫を寵愛していた(衆道)。しかし、源太夫の同僚の河合又五郎が彼に懸想し、それを告白したため、主君の寵愛があるので源太夫は当然これを拒否して罵倒した。又五郎はかっとなって愛憎から源太夫を殺害してしまった。主君の寵童を殺したとあっては上意打ちが行われる、もはや逃亡するしかない。又五郎は江戸に逃げて親戚筋の旗本安藤家にかくまわれた。寵童を殺された池田忠雄は、烈火のごとく怒り、旗本に又五郎の身柄引き渡しを求めたが、これを拒まれたため、つまらない事件が旗本対外様大名の面子の張合いとなって、両者の間で緊張状態となった。幕府は苦慮したが、喧嘩両成敗として事件の幕引きを行おうと、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定した。池田忠雄はどうしても我慢がならず、一国に替えても又五郎の首を取って来いと家臣に命じた。変質狂でもあったのだろうが、その後まもなく31歳の若さで死去した(死因は天然痘とされるが、幕府により毒殺されたという説もある)。死後、家督は三歳の長男・光仲が継いだが、幼少と言う理由だけで因幡鳥取に移封された。

当時の慣習として、兄が弟の(尊属が卑属の)仇を討つことは有り得ない異例な事だが、源太夫の兄・渡辺数馬(二代目)は、上意討ちの内意を池田忠雄から受けていた事から、脱藩して仇討ちの旅に出た(仇討ちの場合は、当事者は藩を離れるのが通常であった)。仇討ちは、幕府に届出をしておかなければ、仇を討っても私闘と判断され殺人罪が適応される。

荒木又右衛門は渡辺数馬の義兄であったがため、剣術が未熟であった数馬から寛永10年(1633年)三十三歳の時に助太刀を要請されている。又右衛門は表面上快諾して郡山藩を退身した事になっているが、内心は忸怩たるものがあった。又右衛門の主君・松平忠明は母が徳川家康の娘・亀姫で家康の外孫にあたり、池田忠雄とは従兄弟にあたる事で、主君からの命もあっては断れない。こんなつまらないことが原因の仇討ちの助太刀のために、ようやく手にした念願の剣術指南の職を失ってしまうし、家族とも離れなければならない、何たる事だ!と思っただろう。

数馬と又右衛門は、江戸を追放された河合又五郎を追っていた。又五郎一行が、又右衛門が良く知っている伊賀上野に差し掛かった時、襲撃する手はずを整え、寛永11年(1634年)11月7日伊賀上野鍵屋の辻で河合又五郎一向を襲撃した。勝たなければ意味がない。又右衛門は姑息な手段を講じ(少数の場合奇襲戦法しかない)、かつての同僚である大和郡山藩の上席剣術師範だった河合甚左衛門(又五郎の叔父)と尼崎藩槍術師範・桜井半兵衛を、建物の陰から飛び出して一気に殺害している。この難敵二人さえを倒せば、後は河合又五郎と渡辺数馬の決闘に持ち込めるとの判断だった。又右衛門はまず、馬上の河合甚左衛門の足を斬り付け、返す刀で斬って即死させた。桜井半兵衛には小者2人を向かわせて得意の槍を渡さないようにさせ(槍と刀では槍が有利)、刀の勝負で半兵衛に深手を負わせた(半兵衛は2日後に死亡)。

渡辺数馬は河合又五郎一人に専心し、数時間に及ぶ死闘の末、ついに又五郎を討ち果たした、両者の刀はササラのようになっていた。数馬側は4人のうち1人死亡、3人負傷。河合又五郎側は11人のうち4人死亡、2人負傷、5人無傷(逃亡)だった。この斬り合いの最中、城下から駆けつけた伊賀藤堂家の竹本六太夫が「何事だ」と誰何すると、半兵衛と対峙していた又右衛門は余裕で「おう、仇敵でござる」と返事したと言う。六太夫自身は動転していて、又右衛門の言葉を正確に把握していなかったそうだが、その度胸を激賞している。しかし、又右衛門が半兵衛を倒したとき、逆上した又五郎側の小者が又右衛門の背後から木刀で打ちかかってきた。又右衛門は腰に一撃を受けたともいわれ、さらに撃ちかかるところを振り向いて刀で受けたが、新刀であったため刀身が折れてしまった。後に藤堂家の家臣で戸波流を興した戸波又兵衛は「大切な場合に折れやすい新刀を用いるとは、不心得である」と批評したという。

死闘の後、数馬と又右衛門は藤堂家に客分として保護されたが、鳥取藩の要請により、寛永15年(1638年)8月12日に鳥取に移った。ニ人はそれぞれ妻子を呼び寄せたが、又右衛門の妻子が九月に鳥取に到着する直前、8月28日に又右衛門は頓死している、三十九歳であった。死因については毒殺など諸説ある(死んだ事にして生き延びたと言う説もあるが)。おそらく、河合側や旗本などによる逆仇討ちが起こっては、又問題がぶり返す事を恐れた誰かが毒を持ったのだろう。池田家については、背景に幕府側の色々な思惑もあったと考える。

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溝口 健二監督の元禄忠臣蔵

溝口 健二
(Wikipediaより)日本の映画監督の(1898年5月16日 - 1956年8月24日)。女性映画の巨匠と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いている。サイレント期は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。完璧主義ゆえの妥協を許さない演出と、長回しの手法を用いた撮影が特徴的である。黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。また、ジャン=リュック・ゴダールを始めヌーベルバーグの若い映画作家を中心に、国内外の映画人に影響を与えた。代表作に『祇園の姉妹』『西鶴一代女』『雨月物語』など)。溝口の撮影技法の大きな特徴として、ワンシーン・ワンカットの長回しを多用することが挙げられる。これは、俳優の演技の流れをカット割りによって断ち切ってしまうことを嫌ったためで、これによって流麗かつ緊張感あふれた演出を編み出し、高い評価を得ている。また、クローズアップを用いずロングショットを使ったことや、移動撮影やクレーン撮影を好んで用いていることなども特徴の一つである。妥協を許さない映画製作でも知られ、セット・小道具・衣裳・時代考証などすべてのものに完璧を求めたことから「ゴテ健」(「ゴテる」は「不平や不満を言うこと」を意味する当時の流行語のこと)と渾名された。セットは全て原寸で作らせ、『元禄忠臣蔵(1941年)』では実物大の松の廊下のセットが作られている。時代考証では、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗考証担当に抜擢したり、『楊貴妃』では当時の中国唐代研究の最高峰である京都大学人文科学研究所に協力を依頼したり、宮内庁雅楽部の尽力により唐代の楽譜を音楽に活用させたりしている。

溝口監督は1941年(昭和16年)真山青果原作の『元禄忠臣蔵』前後編を製作。戦後生まれ(1949年)の私なので、『元禄忠臣蔵』は見た事が無く、一度見てみたいと思っていた。同作では厳密な時代考証を行ったり、松の廊下を原寸大に再現するなど完璧主義による映画製作が行われ、結果長い撮影期間と破格の費用(オープンセットだけで普通の映画3本分の費用)をかけて完成された。作品は文部大臣特別賞を受けたものの興行的には大失敗するという苦汁を嘗め、これを機に溝口は長いスランプ期を経験することになった。

今月になってYoutubeでこの映画がアップされていたのを見つけた(英語のタイトルが付いていたので気が付かなかったが)。映画の冒頭に、松の廊下のシーンが登場する。かなり長い。時代考証の本では、時代考証の見本としてよく紹介されている。

73年前の映画だが、古さを感じさせない。


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別所長治とその子孫

私の従兄弟(高松市出身)の奥さんが別所源兵衛長行の子孫だ。その長行は別所長治(播磨の戦国大名、羽柴秀吉の播磨経略時代のドラマでは有名)の子だと伝えられていると聞いた。そこで別所長治関係をちょっと調べてみた。

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別所氏は播磨の戦国大名。氏祖は平安時代の赤松季房の孫・赤松(別所)頼清とされている。室町時代には赤松則祐の三男の赤松持則が別所氏の名跡を継いだ。古くから三木近辺を拠点とし、現在の三木城跡から外れた位置に城を構えていた。室町中期以降、嘉吉の乱により主家の赤松氏と共に別所氏も一時衰退したが、応仁の乱により赤松氏が勢力を回復すると、別所則治は三木城を築き初代城主となった。則治の孫・就治の代に、主家の赤松氏とその守護代である浦上氏が対立して赤松氏の勢力が衰退を始めると、就治は東播三郡を支配下に置いて赤松氏から独立し、戦国大名として名乗りを上げる。就治は勢力を拡大し、東播八郡(美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、加東郡、多可郡 、神東郡)を支配する別所氏の最盛期を築き上げた。しかし、就治の孫・長治のときに織田信長の命を受けた羽柴秀吉による、有名な「三木の干殺し」にあう。長治は2年間近く抵抗したが力尽きて1580年(天正8年)、長治は三人の女性と七人の子供達の遺体を庭に下ろさせ、蔀、遣戸を打ち砕き、遺体を覆い火を放った後、長治も自害し、その首は安土城の信長の許へと送られた。ここに播磨の戦国大名としての別所氏は滅亡した。
その後、就治の三男・重宗が秀吉の家臣となり但馬国八木城主(あるいは丹波国園部城主)として存続。重宗の子の吉治の代には江戸幕府の下で八木藩を治めたが、1628年(寛永5年)に参勤を怠ったことから改易された。後に許された息子の守治や重宗の他の息子の系統は旗本となった。宝永年間に長崎奉行を務めた別所常治は子孫にあたる。
以上のように、一般的には別所長治の子はすべて亡くなった事になっているが、子が生き残っていたと言う異聞が3つある。

(異聞1)別所重宗の嫡子で後の八木藩主・吉治が実は長治の子であるとする系図も伝えられており、落城の際に連れ出され落ち延びたものとされている。『上津畑ノ庄茶臼山記』と言う史料によると、家臣の後藤基国(後藤又兵衛の父)が、長治の千代丸という子を乳母、家来とともに上津城に逃がし、同城落城後は千代丸は帰農したとされている。

(異聞2)別所長治には二男二女あったと言うが、三木城降伏の際にことごとく長治と共に自害した。従兄弟の息子でこの難を逃れた別所吉治が実は長治の忘れ形見だと言う。

(異聞3)讃岐別所家と呼ばれる別所家庶流がある。播州三木城主別所長治の子とされる別所源兵衛長行が落城後に讃岐に逃がれ善通寺に入ったが、出家を拒んで香川郡百合郷(現在仏生山町)に移り住んだと言う。それが讃岐別所家の祖とされ、別所家の城は百相城(もまいじょう、なかなかこの文字を読める人は少ない)と呼ばれた。長行は慶長5年(1600)9月、旧臣らとともに関ヶ原の戦に参加して、9月16日戦死した。長行の遠孫の別所九兵衛(包好)は、八郎兵衛敬信の子に生まれ、寛保2年(1742)に家督を継いで庄屋となる。宝暦4年(1754)には、大庄屋(香川郡東八か村)を兼務した。常に農事を奨励し、各村ごとに倉付米の制度を設けて、余米を蓄積し、その利益で田畠を購入して自作農を多くした。また、饑饉に備えたから、天明の大飢饉でも八か村からは餓死する者はなかった。さらに他郡にも自米300石を出して救済するほどであった。寛政4年(1792)2月10日没。文政7年(1824)高松藩主松平頼恕は、子の九兵衛長儔に白銀を与え、永く業績を伝えるために、屋敷内に功徳碑を建立させた。碑文は高松藩儒員・岡内禄の作(香川郡志、、讃岐人名辞書、高松地名史話より)
明治になり、このあたり一円を治める大庄屋「別所家」が、明治20年の年末の大火災で焼失。仏生山は『うだつ(防火壁)』のある町ではあったが、よほどの大火であったのだろう。牟礼の揚家と並び称されるほどの分限者・別所家も、この火事を境に次第に零落していったと言われる。

以上のような異聞が残されていた。

(注)うだつが上がらない、と言う言葉があるが、そのうだつ(防火壁)

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御庭番、村垣範正

御庭番

八代将軍・徳川吉宗は紀州家から将軍職を継いだため、自分の信を置ける家臣として紀州出身者を重く用いた。吉宗は紀州藩主時代から、横目や芸目付を使って家臣の取締りを行っていたが、将軍となってからは、諜報活動を行う幕府の役職を設けた。それが一般に御庭番と呼ばれた。すべて元紀州藩「薬込役」の軽輩であった。享保元年に吉宗の長男小次郎(後の徳川家重)に供奉して江戸城に入った者三名、薮田定八(休息御庭の者の支配)、川村弥五左衛門、宮地六右衛門を広敷伊賀者に任命。少し遅れて、明楽樫右衛門、西村庄左衛門の二名、享保三年に吉宗の母・浄円院と共に和歌山から江戸城に入った、馬場瀧右衛門、中村万五郎、野尻七郎兵衛、村垣吉平、古坂興吉、高橋輿右衛門、倉地文左衛門(この子孫が笠森お仙を妻にしている)、梶野太左衛門、和多田孫市、林惣七郎、吉川安之右衛門が加えられた。享保十一年に七名が御休息御庭締戸番(おきゅうそくおにわしめどばん)」、残り九名が伊賀御庭番となり、従来の広敷伊賀者と区別された。享保十四年に紀州藩出身で幕府の「口之者」を勤めていた川村新六もその中に加えられ、計17家が世襲の御庭番となった(後に分家が加えられ二十六家となる)。

当初は微禄の御家人であったが、後々にはほとんどが旗本になっている(小十人格、両番格)。彼らは諜報員であったが、武鑑に役職名も記されていて秘密ではなかった。当初は将軍から直接御用を申し付けられていたらしい(中奥の御座の間近くにある御駕籠台、休息の庭、吹上の庭)が、後には御側御用取次から台命が伝えられている。日頃から御府内(地廻り)の情報を収集していたと思われる(江戸で打ち壊し事件があった際の情報の正確さから)。遠国御用という地方に派遣される事も時々あった。御用を伝えられたら、直ちに出発するのではなく、旅費などの経費を将軍家の御手許金から(遠国御用の場合は百両とか)勘定方で受取り、将軍家秘蔵の丸薬も頂戴している。すべて申請書のような必要であった。数日かけて、御庭番家筋の者が集まって調査方法などを検討し、その後、御側御用取次から証明書を貰って出発する(困った際は、幕府天領の代官所に駈込み、書類を見せて不足金などを借りる)。収集した情報(風聞書)は非常に正確であったと伝えられている。彼らは日比谷門外をはじめ虎の門・雉子橋門にも御用屋敷(組屋敷)があったが、図面を見ると御家人並みの狭い間取りであった事が分かる。職種柄、縁組は御庭番内で済ませるようにとされていた。

村垣範行

御庭番は表向き御広敷役人の身分であったので、そこからさまざまな役職に転出・昇進した。この御庭番家筋の子孫で出世した人物に村垣範正がいる。文化十年(1813年)江戸築地で旗本・村垣範行の次男として生まれ天保二年(1831年)新規に召出しで小十人格庭番となり、安政元年(1854年)に賄頭を経て勘定吟味役に抜擢された。同年、ロシアのプチャーチン艦隊の再来日に際して、筒井政憲・川路聖謨らとともに露使応接掛として伊豆下田に赴任した。翌年以降、箱館表御用、内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他製造御用、東海道筋川々普請掛などを歴任。安政三年(1856年)には箱館奉行に昇進し、従五位下淡路守に叙されている。安政五年(1858年)安政の大獄で罷免された岩瀬忠震の代わりに外国奉行に任命され、さらに翌年には神奈川奉行を兼務するなど能吏であった。
もっとも注目されるのが、安政七年(1860年)日米修好通商条約批准書交換のためにアメリカへ副使として派遣された事だ(正使は新見正興、目付は小栗忠順)。正月に米国軍艦ポーハタン号にて太平洋航路を出発し、途中ハワイに寄港し、三月にサンフランシスコに到着。ワシントンに向かい、四月三日に批准書を交換。アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンと会見している。帰路はナイアガラ号にて大西洋航路をとり、南アフリカ・インドを経由して帰国、九月二七日に江戸へ到着。この間、克明な航海日誌(村垣淡路守公務日記、遣米使節日記)を残している。


(写真、左から副使・村垣範正、正使・新見正興、目付・小栗忠順)

遠くの異国アメリカに派遣される事を家族に伝えたところ、全員が唖然として声もなかったらしい。
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